中間団体の両義性

いい話なので、コピペしておきます。

アトム化が現在の権力による大衆動員の源泉だというのは、
以前から指摘されてきたことですが、
それに対する抵抗や批判の拠点を中間団体に求めるというのは、
両義的かな、と思います。

元々、丸山政治学では、中間団体というのは、日本型ファシズムの成長母胎だったんでは?

ところで、大学というのは、本来封建的であるべきで、
市民社会や消費者に奉仕するべきではない、というのには、
頷くところもあります。

本来、世間の常識に軽々にしたがわず、
あたりまえとされていることを疑ってみるのが大学の機能でしょう。

世間様に通用しないと、空気を読んで拙速に対応する大学ばかりというのも、
いかがなものか、とは思います。

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http://demosnorte.kitaguni.tv/e539083.html

フォーラムin札幌時計台 第9回 柄谷行人講演会

 フォーラムin札幌時計台、第9回は、思想家の柄谷行人氏を迎えて、5月21日に開催された。私は柄谷氏の作品の熱心な読者ではなかった。しかし、『世界共和国へ』(岩波新書、2006年)を読んで、思想の構えの大きさに感銘を受け、あらためて読み直そうと思った。昨年、東京で開いている研究会に講師としてきていただいた時に、札幌にもおいでくださるようお願いして、今回の講演が実現した。

 以下、柄谷氏の講演の要点である。
 柄谷氏の講演のテーマは、民主主義を支える土台としての個人と共同体(アソシエーション)である。日本においては、歴史的に見ても、中間団体、部分社会(ギルド、組合、宗教団体、自治都市)がほとんど存在しておらず、わずかにあったものも明治維新以降の近代化の中で解体された。その結果、権力に抗する拠点が存在せず、人々は中央集権的な支配体制に統合された。その意味での集権的支配と近代化は実に効率的であった。
 こうした特徴を、宮崎学は、独自の掟をもった自治的団体や部分社会の不在と呼ぶ。また、和辻哲郎は、『風土』の中で、自治的公共空間の不在を指摘していた。自らの生活を守るために、都市の公共的世界に関わっていくという機制が存在せず、家の中さえ平穏であれば外部の政治はどうでもよいという心理が蔓延した。
 中間団体や部分社会の不在こそ、日本の民主主義の脆弱性の最大の原因である。日本人は、食品の安全性や、家の周りの環境など、家の中に関わる問題が争点かすれば、自分の利益を守るために積極的に発言、行動する。しかし、それ以外の公共的問題については無関心である。
 この点は、欧米はもとより、中国と比べても、大きな違いである。ヨーロッパには、自治都市やギルド、教会など、自立的な中間団体の歴史がある。また、アメリカでも、宗教など個別社会はきわめて根強い。中国では、国家権力とは無関係の、縁戚集団や結社がある。王朝は変わっても、民衆のネットワークは持続する。これに比べて、日本の特に近代社会は、ローラーで均されたようなフラットな社会である。人々が政治的な主張をしないのは、ポストモダンの現象ではない。7月の洞爺湖サミットの際に、デモが1つも起こらないようでは、日本がいかに異質で、非民主的な社会かを世界に宣言するようなものである。
 丸山真男は、結社形成的−非結社形成的、求心的−遠心的の2つの軸を組み合わせて、個人析出の4つのパターンを類型化した。この図式は現在の日本にも当てはまる。結社形成的で求心的なモデルが、民主化である。このタイプの個人は集団的な政治行動に参加すると同時に、中央権力に統合される。結社形成的で遠心的なモデルが、自立化である。このタイプの個人は、権力からの自由を重視し、社会の中に自立的な集団を形成する。非結社形成的で遠心的なのは、私化(privatization)である。政治活動に挫折し、私的な世界に引きこもる。非結社形成的で求心的なのは、原子化(atomization)である。このタイプの個人は、公共的問題には無関心であるが、しばしば権力に動員され、これを翼賛する雪崩のような行動を起こす。
 日本の場合、中間団体、部分社会が存在しなかったため、私化、原子化が進んだ。そのことは近代化にとって効率的であったが、民主政治を脆弱にした。つい最近の小泉ブームも、原子化によって説明されるであろう。あの「改革」は、郵便局、労働組合など、日本にわずかに存在した部分社会を、既得権集団、抵抗勢力として切り捨てるものであった。大学も、そのような意味での改革の標的になっている。
 丸山は、近代主義者といわれているが、実は封建的なものを高く評価していた。封建的なものが、権力による画一化や統合への抵抗の拠点となりうるからであった。たとえば、学問の自由や大学の自治などというものも、近代的な人権というよりも、中世以来の大学の持っていた特権に由来している。特権があったからこそ、大学は批判の中心となり得たのである。
 現代では、専制者なき専制、独裁者なき独裁があり得る。市場主義による専制はその一例である。国民主権という建前や、代表民主主義という仕組みはあっても、市民は世論調査によって量られる数量に還元されてしまっている。
 民主主義を担う個人が必要なことは明らかだが、個人個人で頑張れば、民主主義を支える市民ができあがるというわけではない。個人が集団の所属することによって市民が形成されるのである。これから、多様な部分社会を造り出す努力を進めるべきである。

 以上が柄谷氏の講演の要点である。柄谷氏の話は、きわめて明快であり、思想家としての迫力を感じた。