地方分権

私もどちらかというとこういう見方に近いです。

要するに、地方分権というのはナショナル・ミニマムの放棄ではないかと。

中央から地方への所得移転の是非ですが、ユーロ圏と同じで、共通通貨圏において所得移転は不可避だと思います。ユーロ安のおかげでドイツが得しているのは、ギリシャ・スペインのような「弱い環」によって通貨価値が下に引っ張られているからです。それによってドイツが得した分、ちょっとは弱い国に回せよ、ってわけ。

東京の競争力、というのも、日本国が弱い地域を抱えているおかげで、東京の経済力からみれば円が割安になっている、という面もあるわけです。

**********************************************************

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/02/post-f4ac.html

<>ところが、この間の分権化では、そうした配慮がほとんど見られなかった。・・・苦しい中で、なぜ自分たちが稼いだものをよそへ回さなければならないのかという考え方が広まった。こうして、分権化はきわめていびつなものとなっているのです。

かなり率直に事態を批判しているのでしょうが、敢えて言えば、「地方分権」というなら、いやむしろ「地域主権」というなら、「なぜ自分たちが稼いだものをよそへ回さなければならないのか」という考え方は必ずしも「いびつ」ではなく、むしろまっとうなのではないでしょうか。怠け者のギリシャ人に俺たちが稼いだものを・・・というドイツ人の感情は、「EU中央集権」に対するナショナルな「ドイツ主権」の感情であって、90年代以来の大前研一氏らの議論の底流を流れているグローバルに稼いでいると自認するトーキョー人たちの金食い虫の「かっぺ」に対する感情と実はパラレルなのではないでしょうか。それは、価値判断としては「いびつ」だと私も感じますが、論理的には「地域主権」からもたらされる自然な帰結のように思われます。もしそれが「いびつ」であるとしたら、それは「地域主権」自体が「いびつ」だからなのでしょう。

本誌では冒頭の「明日への視角」で、高木郁郎さんがやや醒めた目でこのように書いています。私はこちらの方に共感を持ちます。

>民主党政権の金看板に「新しい公共」と「地域主権」という2つのキイワードがある。公共サービスのあり方を地域に任せ、地域の中ではこれまで狭義の政府部門が握ってきたサービス供給を民間に担わせるというものらしい。

>・・・その意味で、「新しい公共」と「地域主権」は時宜に適しているようにも見える。

>しかし、現実に進展している事態を見るとワナがある。・・・

>地域の実情というのは、現実には、人々のニーズや社会サービスのしっかりした質というのではなく、いかに安上がりに済ますか、という地方行政対の財政面での利害だけが考慮されている。そうした地域主権は、国が行うべき事の地域への丸投げに過ぎない。要するに福祉国家としての最低限の要件であるナショナル・ミニマムの解体である。憲法が定めていることは、地域主権ではなく、国民主権である。>