大衆の原像

これは吉本隆明のキーワードの一つです。ちょっと説明しましょう。

まず、知識人の使命とは、「大衆が何を考えているか」「何を喜びと感じているか」「何を欲しているか」、そういうものを正しく捉えることです。正しく捉えられたそれらを「大衆の原像」と言います。

もし、知識人がそれを捉えることに失敗し、何らかの教条にこだわって大衆を批判するだけにとどまるなら、それは吉本の言葉で「転向」とされます。知識人の本来の役割の放棄が、「転向」なんです。

だから、例えば戦争中ずっと獄中にいて世間の動きを知らなかった共産党員たちは、それ自体「転向」していたとされます。また、1960年代ごろ、戦後の消費社会の成熟とともに、それなりに経済成長の成果を楽しんでいる大衆を、「保守政治によって懐柔されて脱政治化した」と批判した進歩的文化人もまた「転向」しています。

とまあ、こんな感じですが、「転向」という言葉の吉本流使い方、わかっていただけたでしょうか。

明らかに普通の言葉の使い方とは異なっていて、わかりにくいのは確かです。文字どおりの意味では、「転向」とは教条を放棄して現実に迎合することですが、吉本の使い方はその逆になっています。

しかし、この使い方が、高度成長期の、大衆の欲望と、知識人が掲げるきれいごとの乖離に悩む若いインテリ予備群には、新鮮と受け止められ支持されたわけです。実践的にも、大衆に迎合すれば「大衆の原像」をつかんだことになるというのだから、まことに都合がよい。インテリがカルチャーを捨ててサブカルに走ることの格好の正当化となったわけですね。

この転向論、今でも、とても使い勝手がいいのですよ。

最近、多くの知識人が橋下に「論破」されましたが、大衆が大好きなのは橋下であって、きれいごとの知識人たちが不人気なのは、彼らが「大衆の原像」をつかみ損ねているからです。

例えば、そのようなインテリの一人、山口二郎は、かつて「政治改革」を唱えました、実際、世の中はその理念に沿う形で動き、小選挙区中心の選挙制度に移行し、二大政党による政権交代らしきものが実現したのです。しかし、政治の現状は、これらインテリの望んだところとはかけ離れている。かつては一時代を主導できたのに、今では、大衆に人気のある政治家を教条的に批判するだけで主導権を取れなくなっているのは、一種の「転向」なんですよ。

どうです?とても便利な言葉でしょうw

冗談ではなく、吉本の「転向」「大衆の原像」概念は、ある種の本質を捉えているのです。

60年安保ぐらいまでは圧倒的な尊敬を受けていた丸山真男が、安保以後人気を失い、全共闘の時は研究室を滅茶苦茶にされ、失意のうちに東大教授職を辞したのも、「大衆の原像」を捉えることに失敗したからだ、とされます。

いずれにしても、知識人というのは常に人気がなければならない。大衆に支持されず世間への影響力を失ったら、「転向」なんです。