私の履歴書・市川猿翁22~28

ヤマトタケル」にはいろいろな評判があった。歌舞伎だという人も、歌舞伎ではないという人もいた。「歌舞伎であって歌舞伎を超えたもの」という狙い通りの反響であったわけだ。スーパー歌舞伎はこのあと「新・三国志」3部作まで全9作を生み、観客動員は300万人を超えた。

天にはばたくヤマトタケル(本人提供)
画像の拡大
天にはばたくヤマトタケル(本人提供)
 どの作品にも実験と冒険が盛り込まれた。「リュウオー」で京劇と共演し、「オグリ」でミラーを使った。「オグリ」で見せた人馬一体の梯子(はしご)昇りや碁盤乗りはミュージカル「ピーターパン」のフライングを考案したピーター・フォイさんを招いて、その技術で実現させたものだ。

 「八犬伝」では当時新進だった横内謙介さんに脚本を依頼した。横内さんに書き直しをお願いすると、こちらの考えを上回る返答があった。いわゆる御用作家にならないところが横内さんのいいところだ。このときは英国のデルスター社に油圧装置(ステージウィング)を発注して、劇場の電源を大幅増設した。

 痛快娯楽大作を目指した「新・三国志」シリーズでは、映画をヒントにした。三国志を題材とした「レッドクリフ」は敵味方の関係が分かりにくいが、私の舞台ではパッと見て分かるように魏(ぎ)蜀(しょく)呉(ご)の国別にカラーで分けた。関羽劉備(りゅうび)を抱き上げる二人宙乗りは「風と共に去りぬ」のスカーレットとバトラーのポーズ。スペクタクルシーンの赤壁の戦いで巨船が折れて燃えながら沈むシーンは「タイタニック」から着想した。

 火事場の屋体崩し、本水使用の大立ち回り、京劇陣の超絶アクロバット技巧の見せ場をシリーズの2部、3部にも盛り込んだ。ウケた手法を繰り返す「ホームアローン」のひそみにならったのである。加藤和彦さんの作曲により、歌舞伎史上初めてとなるオーケストラ演奏も取り入れた。

 なぜスーパー歌舞伎が喜ばれたのか。私の分析では(1)現代人にもわかる現代語である(2)ファッションショーとしても成り立つほど歌舞伎のビジュアルを生かした(3)テーマがハッキリしている(4)最先端の技術を使う(5)主演と演出を兼ねた(6)未来の観客まで取り込めた――といった要素が浮かび上がる。これでわかるように、スタッフの力は大きい。

 監修の戸部銀作さんと奈河彰輔さん、美術の朝倉摂さん、照明の吉井澄雄さん、舞台技術の金井俊一郎さん、音楽の長沢勝俊さん、加藤和彦さん、文楽三味線の鶴澤清治さん、音響の本間明さん、衣装の毛利臣男さん、いずれも私と同じ完全主義者だった。それぞれの立場から同じコンセプトに向け飛躍した。難問山積だからこそ意識が集中する。

 たとえば「ヤマトタケル」では幕開きも歌・舞・伎で演出したかった。ドロップ(緞帳(どんちょう))が開くのは古代への扉を開いていくイメージ。上方和事の「廓(くるわ)文章」で伊左衛門が遊女夕霧を待つ場面――何枚も襖(ふすま)をぽんぽん開けていって、ああ夕霧がいた――とうれしがるあの素晴らしい発想でいこうと思った。ところが実際には吊(つ)る枚数が3枚しかない。そこで照明のライトをカーテンにし、舞台盆を回して宮廷をセリ上げ、古代のような歌舞伎のような豪華絢爛(けんらん)たる帝と皇后が現れるように幕開きを創った。

 スーパー歌舞伎のスペクタクルの根底にあったのは、まぎれもなく歌舞伎であった。

(歌舞伎俳優)



京劇との絆(きずな)は祖父、初代猿翁(二代目猿之助)にさかのぼる。国交がない時代、祖父は一番初めに中国公演をした歌舞伎役者であった。1955年秋、中国で「勧進帳」の弁慶をやった祖父が毛沢東と撮った写真が残っている。

梅蘭芳氏(右から2人目)と。右端に祖父、左端に筆者
画像の拡大
梅蘭芳氏(右から2人目)と。右端に祖父、左端に筆者
 翌年には交換交流で京劇が日本にきて、歌舞伎座などで大々的に公演した。梅蘭芳(メイランファン)、袁世海、李少春といった名優がきら星のごとくそろっていた。高校生の私は学校をさぼって見に通った。梅蘭芳の華麗さ、李少春の軽妙さに舌を巻いた。毎日異なる演目だったのに、1日だけ見逃してしまったのが今でも残念でならない。

 祖父は赤坂一ツ木の自宅に京劇の座員全員を招いて歓待した。祖父が「浦島」を、父の三代目段四郎が素踊りの「橋弁慶」を踊った。隣の人と仲良くするのは人間の常識ではないか。一衣帯水というが、祖父と梅蘭芳さんが結んだ友情が時がたっても生きていたことを私はスーパー歌舞伎を創(つく)る中で実感した。

 スーパー歌舞伎の2作目「リュウオー」は歌舞伎と京劇の融合を目指していた。京劇院院長の呂瑞明さんと「京劇と歌舞伎は表現方法が違うだけで基本は同じ」と意気投合し、4年がかりで上演にこぎつけた。共演した京劇の名優、李光さんとは79年に南座まで「伊達の十役」を見にきてくださって以来の交流があった。幸い89年の3カ月公演は沸いた。祖父や梅蘭芳さんが見たら驚いただろう。

 「リュウオー」に限らず、スーパー歌舞伎は京劇の手法を取り入れている。「ヤマトタケル」の草薙の剣の踊りでは、布で浪を表現する京劇の「白蛇伝」を参考にした。赤い布を振って、高さと動きにより火勢を美しく構成し、蝦夷(えぞ)と大和という新旧文化や戦いの構図もパッとわかるようにしたのだ。呂瑞明さんとの間で生まれた信頼関係は「新・三国志」シリーズで再び実を結び、京劇の立ち回りを取り入れることができた。

 中国との交流の広がりから、話劇(セリフ劇)を元にした舞台を創ったこともある。藤間紫さんが主演した95年上演の「西太后」で、元が一幕物だったので、作者の孫徳民さんに2幕、3幕を書き下ろしてもらい、大スケールの芝居に仕上げた。

 紫さんと私は2000年に入籍、結婚した。そのころから紫さんのとりなしで、息子の香川照之(九代目中車)と時々顔を合わせるようになっていたが、そのずっと前に巡業先を突然訪ねてきたことがあった。91年2月、沼津。別れざるを得なかった子と23年ぶりに再会した。

 大事な舞台の前に約束なしに来たことは役者として配慮が足りない。ほめられた話ではない。「息子ではない。したがって父でもない」と言ったのは、成人した人間として行動も考えもしっかりしてほしいという気持ちからだ。

 私は家庭を失ってから、生きるも死ぬも身ひとつの覚悟でやってきた。歌舞伎に全身全霊をかけている。だから息子も役者としてやっていきたいなら、私を父と思うな、と言ったのだ。

 「何者にも頼らず、独立自尊の精神でいきなさい」。私としては至極当然のことを言ったつもりだった。泣いている息子には本意が伝わらなかったようだが、私はこの再会を忘れたことはなかった。

21世紀を迎えるにあたって、これまでの演劇活動を発展させるため、初心にかえって勉強し直したいという思いに駆られた。1996年から始めた「世紀末五カ年計画」は猿之助襲名間もないころの春秋会とは異なる性質の自主公演、第二次春秋会となった。

第二次春秋会で玉手御前を演じる
画像の拡大
第二次春秋会で玉手御前を演じる
 やり残した役や食わず嫌いの役を演じることを目的とした「世紀末芸の花の狂い咲き五カ年計画」である。役者には誰しもやりたい役があるが、私はそれらを演じ尽くす幸運に恵まれた。偉い先生の力でやれたことが全部自分の力でできた気になる。「ヤマトタケル」には「傲慢(ごうまん)という人間を滅ぼす、最も重い病」という伊吹山の山神のセリフがあるが、まさにその傲慢を戒める「初役集」であった。

 演目選定は後援会「おもだか会」の会員アンケートを参考にした。未上演の30演目から見たいものを選んでもらったら、なんと第1位が苦手で嫌いな「娘道成寺」、第2位の小粋な江戸前の「髪結新三(かみゆいしんざ)」も不得意! これは参ったと思ったが、ファンに選んでもらうと宣言した以上、演じないわけにいかない。

 例年は歌舞伎座の初春興行などに出演していた1月を休演し、1週間の「春秋会」に1カ月の稽古をして臨む。女形の大曲「京鹿子娘道成寺」は全段を真女形で踊り通すので、立役(男役)の得手な部分は封じられてしまう。

 澤瀉屋(おもだかや)の踊りは直線的な迫力を特徴としており、私も曲線的な踊りは苦手。女形に不慣れな上、器用でない私は「基本からの稽古と楷書(かいしょ)の踊り」以外に難関を切り抜ける法はないと観念した。

 このとき助け舟を出してくれたのは藤間紫さん。六代目藤間勘十郎師の教えを受け継ぐ名舞踊家なので、踊りの神髄を習うことができた。しかし、しなやかに、まろやかに、まったりと……なんて考えただけでも私はもうイライラ、精神衛生上はなはだ良くない。ストレスから肝臓の数値は悪化してしまったし、体重も4キロ以上減った。

 一方の「髪結新三」は大好きな先輩、十七代目勘三郎丈の衣鉢を継ぐ当時の勘九郎君(十八代目勘三郎)に手順を教授してもらった。後輩が教えるので恐縮していたが、奥の手まで教えなさいよ、と先輩風を吹かせ、すっかり教わった。生世話物(きぜわもの)は台本に書いていない部分が大変多く、実際に聞いて初めてわかる。

 新三はやれば面白い役で「食べてみたら案外おいしかった」。理由のひとつは通し上演を試みたことで、初演以来の復活になった大岡裁きの場まで出した。この試みが好評だったことから、第二次春秋会はすべて古典の新演出による通し上演となった。

 上演されない場を復活し、物語に一貫性を持たせようと補綴(ほてつ)の石川耕士さんと芝居の虫になった。古典を新演出で通し上演する試みは本興行にも及ぶ。未上演30演目の中に「国性爺合戦(こくせんやかっせん)」があったが、予算面から自主公演ができない。それが98年12月の歌舞伎座で上演できた。

 真山青果の「頼山陽」に「羽虫はなぜか知らぬだろう、しかし飛ばずにはいられないのだよ」というセリフがある。私はその羽虫であった。やりたい一心でひたすらやっていると、後から理念が立ち上がって、大きな取り組みになる。物事には無心の情熱で貫き通すプロセスが必要であろう。

(歌舞伎俳優)

歳を重ねれば重ねるほど月日はあっという間に過ぎていく。「ヤマトタケル」初演が46歳、「新・三国志3完結篇」が63歳。スーパー歌舞伎の創作と国内外における演出の日々は重なっていた。1990年ごろには4プロダクションを日替わりで同時進行していた時期がある。

春秋座で徳山詳直京都造形芸大理事長と
画像の拡大
春秋座で徳山詳直京都造形芸大理事長と
 スーパー歌舞伎で一門の若手は大きく成長した。「ヤマトタケル」初演で国立劇場養成所出身の笑也(えみや)をみやず姫の大役に抜擢したのは、偶然だった。出演を依頼したある御曹司の親御さんが、児太郎君(現福助)との間に役の大小があるといって降板を伝えてきた。

 そういうゴタゴタが嫌いな私はいっそ笑也でいこう、と決断したのである。マスコミには歌舞伎界の旧弊を破ることと取り上げられた。大作での抜擢は発奮材料となっただろう。89年に一座の若手役者を二十一世紀歌舞伎組と名づけ、私の演出で公演を重ねた。

 役者と演出家と教育者。昔から名を残すような名優には三足の草鞋(わらじ)が不可欠だった。それは私の理想でもある。年間目標に若手の育成を掲げるようになったのは、多忙を極めた、この90年ごろだ。

 仏文学者の桑原武夫先生から、次のような言葉をいただいたことがある。

 「人間は四十代後半になったら、自分の力を弟子なり後進なりに分けてあげなければいけない。人を育てるにはエネルギーが要る。老齢になった後に名誉職のような形で養成するのではだめだ。力の充実している時期に後進を養成しなければ人は育たない」

 92年から2003年まで、私は京都造形芸術大学の教授(のち副学長)として集中講義を行った。梅原猛先生を通して、理事長の徳山詳直先生と知り合い、その人間性に感動して教授を引き受けたのだ。古典芸術演習として歌舞伎の授業を依頼されたが、俳優志望でもない学生に何を教えたらいいか正直言って私は迷っていた。

 そんなとき徳山理事長が私に江戸時代の漢学者で儒学者の細井平洲が残した言葉を教えてくれた。「泣き申さず候(そうろ)うては、化(か)し申さず候」

 人は泣くほど感動したとき素直に考える力が生まれ、向上心を持つという意味だと私は理解した。講義で歌舞伎の実際を見せ、実技で体感してもらう。芸術に携わる人間にとって、究極の目的である感動を学んでもらおうと思ったのである。講師として携わった一座の若手役者から鳴物、衣装、鬘(かつら)など裏方のスタッフまで全員が、真剣に学生と向き合った。

 徳山理事長と芸術論、文化論を語り合う中から、大学構内に京都芸術劇場「春秋座」が生まれた。南座と同じ規模で歌舞伎が公演できる本格的な劇場が大学構内にあるのだから、世界的にもまれな例だろう。私は初代芸術監督も仰せつかった。

 実は徳山理事長には猿詳の名を提案していただいていた。詳の字には生まれかわりの意味があるという。再生、久遠、永遠という哲学的意味を併せ持つ。猿詳を名乗れば深く遠い道が開け、修行の道は尽きないというのである。

 翁の字がおじいさんを連想させるゆえ猿翁の名がダイキライだった私は、いつの日か初代猿詳を名乗ろうと望んでいた。幻となった雪之丞のごとく、こののち猿詳が幻の名跡となるかどうかは私次第。

2003年は出雲の阿国がかぶき踊りを始めて400年、私が猿之助を名乗って40年にあたった。自分の活動時期が1割になると思えば、歌舞伎の歴史も長いようで短い。

軽井沢の山荘で藤間紫(右)さんと
画像の拡大
軽井沢の山荘で藤間紫(右)さんと
 前年暮れの「椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)」を皮切りに「新・三国志3完結篇」「四谷怪談忠臣蔵」「競伊勢物語(はでくらべいせものがたり)」と、これまでにない大作の創作が続いた。すべてを演出、主演した。ホッとした11月は博多座の「西太后」だった。主演の藤間紫さんと私が夫婦として初めて共に立つ舞台。ところが、その最中の17日に緊急入院となった。セリフまわしがいつもと違うと、紫さんや右近、笑也(えみや)たち共演者が気づいた。

 病院で精密検査を受け、髪の毛ほどの細い血管にごく初期のラクナ梗塞(こうそく)が見つかった。1カ月の入院。グルメの私は病院食に閉口したが、主治医の言葉を受け「澤瀉屋改め薄塩屋市川減塩(うすしおやいちかわげんえん)に改名する」と決意表明! リハビリも疲れすぎるくらいやってしまう優等生患者であった。

 リハビリを兼ねて早い舞台復帰がよかろうと、既に決まっていた翌年1月末からの全国巡業「一條大蔵譚(ものがたり)」に主演した。だが、ハードスケジュールの巡業を終えてみれば肝機能が低下、ドクターストップ。舞台に出られないことは限りないショックだった。そのストレスも肝臓の持病にたたったかもしれない。

 軽井沢と東京の家、一門の公演先を往復する長期療養生活が始まった。弟子たちに稽古をつけ、演出の打ち合わせをする。舞台に出られなくても芝居のことを考えるのはこの上なく楽しい。海老蔵君が私の型で「四ノ切」(義経千本桜)と「伊達の十役」を上演し、その稽古をつけることができた。

 何月何日に役者で復帰すると期日を決めることはできなかった。約束して果たせないと、お客様に対してウソつきになる。それが耐えられなかった。今までにやりたいことは全部やった、なんの悔いもない。そんなことをしきりに言って、ずいぶん周囲を困らせたときもあったようだ。

 闘病を支えてくれたのは、紫さんだった。さかのぼれば12歳のころ、六代目藤間勘十郎師に入門したときの家元夫人であった。子供心にも美しい人だと思った。

 その後も春秋会や巡業で力を貸してくださったのは、夫の勘十郎師を補佐する立場からだったと思う。祖父と父を亡くし、借金を背負って、親友と信じていた人から思いもかけない仕打ちをされたり、身内から誤解を受けたりした。そんなときも変わらず応援し、導いてくださったのが勘十郎師だったのである。

 紫さんは踊りの師であり、猿之助歌舞伎の同志であり、公私ともに最高のマネジャーであり、頼もしい戦友であった。人生で最も大切なのは愛で、愛は犠牲だと教えてくれた。表に出ず「どんな悪者といわれてもかまわない。それよりも猿之助さんの信頼をなくしたくない」と口にしていた。

 死という終着点では、一方だけが残る。互いの意思(遺志)を貫くため入籍は大切と考え、奮闘公演30回、猿之助130年の節目にあたった2000年に承諾してもらった。

 紫さんは2009年3月27日、命を閉じた。途方もない大きなものを追い求めて……私は枕辺でヤマトタケルの「天翔(あまがけ)る心」のセリフを何度も言っていた。

(歌舞伎俳優)

猿之助名跡は曽祖父以来140年、1日も途絶えたことがない。2012年は祖父の初代猿翁と父の三代目段四郎の五十回忌を迎える年だった。改めてそのことを考え、猿之助を私に託した祖父の思いを今度はおいの亀治郎に託すことにした。

 前の年の9月、襲名会見を開いた。弟の段四郎、おいの亀治郎と公の席で並ぶのは久しぶりのことだった。私が二代目猿翁に、亀治郎が四代目猿之助に、息子の香川照之が九代目中車に、孫の政明が五代目團子(だんこ)を襲名するという発表だった。

 この澤瀉屋(おもだかや)4人同時襲名に際し、松竹も一門も私の出演は口上のみになると考えていたようだ。体調を慮(おもんぱか)ってのことだったが、私はもちろん出演する気だった。

 猿翁の名はじじむさくてキライ、それならいっそ祖父にちなむ猿翁十種の「二人三番叟(さんばそう)」に出てくる黒い尉(じょう)の翁(おきな)になりたいと思った。黒い面(おもて)をつけて軽快に踊る、あの力強い翁である。楽屋の表札の表は猿翁になったが、裏には三代猿之助と自署した。猿之助の名に刻まれた進取と創造の精神はこれからも変わらないという決意である。

 12年は元日に照之と一緒にあいさつ回りすることから始まった。配り物や案内状の手配に始まり、澤瀉屋の総領として考えることは山ほどあって、体が動かない分くたびれてしまった。

 かたくなってしまった体を、痛みをこらえながらリハビリでほぐす。鬘(かつら)合わせをする。舞台に出るため化粧(かお)をするのも実に8年ぶり。ところが6月に新橋演舞場で襲名披露興行が始まると不思議に元気になって、周りはびっくりしたらしい。化粧も日々うまくなる。舞台に出て精いっぱいの気を放ち、お客様との間で気の交流をすることが一番のクスリになったようだ。

 6月は口上に加え、演出家として「ヤマトタケル」のカーテンコールに出た。7月は海老蔵君の五右衛門に私の久吉で「楼門五三桐(さんもんごさんのきり)」を出した。

 「巡礼にご報謝」

 たった一言のセリフを何度も稽古して臨んだ。演じてタノシカッタ! 中車を黒衣(くろこ)として私につけ、カーテンコールのときは顔を出して弟子たちと共にあいさつさせた。わきあがるお客様の歓声!

 翌年1月、大阪の松竹座では中車の五右衛門で、父子初共演を果たした。坂田藤十郎丈、十二代目団十郎丈ら多くの方々の力を借りて、2年にわたる襲名披露ができた。

 昔、こんなことを書いている。「十三回忌=三十五歳、十七回忌=三十九歳、廿(にじゅう)三回忌=四十五歳、廿七回忌=四十九歳、三十三回忌=五十五歳、五十回忌=七十二歳……というのが、今後の猿翁・段四郎の追善予定と猿之助のそのときの年齢であります。これでゆくと今後の猿之助の見込みは、十七回忌は今までと左程(さほど)変わらず、廿三回忌に一人前になってなかったら見込み無し、廿七回忌に天下人の一人になっていなかったら意気地なし、三十三回忌に名優になっていなかったら役者やめろ、五十回忌迄(まで)命が持たば目出度(めでた)し目出度し」

 自分で出演できると思わなかった祖父と父の五十回忌追善を澤瀉屋4人同時襲名披露と併せ、一門そろって盛大に行うことができた。しかもスーパー歌舞伎ヤマトタケル」を古典歌舞伎の演目と並べて上演できたのだから、感慨深いものがあったのである。まずは目出度し目出度し。

(歌舞伎俳優)

 ノウハウは誰にでも教える。若かったころ、私の行き方に批判的な先輩でも役を教えるとなれば、きちんと伝授してくださった。歌舞伎界には、そんなよい伝統がある。

襲名会見後、息子の中車(右)、孫の團子と
画像の拡大
襲名会見後、息子の中車(右)、孫の團子と
 私は1988年に猿之助十八番を、2010年に三代猿之助四十八撰(せん)を制定している。私の演劇活動を貫く3本柱、すなわち復活通し狂言、古典の新演出、新作の創造を網羅した演目集である。いろいろな要素や型があるから歌舞伎は面白い。いろいろな見せ方をしてこそ変幻自在でありつづける。私の作品は誰がやっても芝居として面白くなるよう検証しているから、多くの役者によって上演されることを望んでいる。

 照之(中車)から歌舞伎界に入る決心を聞いたのは、いつだったろうか。大変な道を自ら選んだ倅(せがれ)をアッパレだと思った。先代中車の名跡は二代目猿之助(祖父)の弟が名乗っていたよい名で、屋号は立花屋だった。十二代目団十郎丈、松竹の理解があって澤瀉屋(おもだかや)の名跡として披露できた。その子の團子(だんこ)とともによく修業してもらいたい。

 四代目の現猿之助アンファン・テリブル(恐るべき子供)と呼ばれたほど、何より芝居が好きな子だった。私と同じで、頭をぶつけてみるまで痛いということがわからない。そこが心配でもあるが、私の作品はすべてやってほしいと思っている。澤瀉屋の進取の精神を発揮し、自分独自の発明もしてもらいたい。

 伝統芸能の世界には一子相伝という考え方があるが、私はこれを拡大し、弟子たちをみな我が子と考えてきた。一座一門の役者50人近くを率いて、芝居を創(つく)ることに頭脳も身体もフル回転してきた。

 私は祖父と起居を共にして多くを学んだ。その経験から、今度は自分が軽井沢の山荘で夜遅くまで稽古をつけ、いつも芝居の話をした。古典歌舞伎と新作は役者の両輪だと教え、私の姿勢、歌舞伎への取り組みをみせた。詩人ルイ・アラゴンのいう「教えるとは共に希望を語ること。学ぶとは真実を胸に刻むこと」という精神を伝え得たならば、うれしい。

 右近、笑也(えみや)、猿弥、笑三郎春猿、月乃助をはじめ弟子たちはみな、私の演劇精神を受け継いで走っている。うまい具合にそれぞれのニン、持ち味を生かして伸びている。

 襲名したのは四代目猿之助であり、九代目中車であり、五代目團子であるわけだが、三代目猿之助の精神は一門みなが継いでいくと思っている。

 若手には、自分たちで現代に生きる歌舞伎を手がけてほしい。新作は最低でも8カ月上演しないと練れてこない。いくら自分でいいと言ったって、お客様の支持がなかったら三文の値打ちもない。再創造、創造をしていかなければ真の伝統はつちかわれないと思う。

 祖父の初代猿翁(二代目猿之助)は私に厳しく教えた。「形はなりやすく、心はなりがたし」

 形、型はまねやすいけれども精神(こころ)を継承するのは大変だという意味だ。役者という修羅の道を歩んできた私は心の底からそう思う。

 私は今もなお天翔(あまがけ)る心をもって目に見えない大きなものをつかみ取る生き方にあこがれる。信ずれば夢は叶(かな)う。私にはまだやることが一杯ある。

(歌舞伎俳優)