経済学と福祉国家はもともと相性が悪い

福祉国家」理念が実現すれば、人間の生存にかかわるサービスは、政府によって低価格で提供されます。

たとえば医療・介護が低価格で提供されることは国民にとってとても喜ばしいことです。しかし、これを政府で維持し続けるためには「大きな政府」、大きな税負担が必要です。

一方、経済学的には、「市場の失敗」「公共財」などの性質がない財・サービスは、できるだけ市場メカニズムを通じて民間によって提供されるべき、という考えがある。

医療や介護には、そのような特別の性質がありません。だから経済学的には、市場で民間によって提供されるべきです。

これを文字通りやったのがアメリカで、その結果、医療費高騰などの事態が起きている。

医療費が高いのは、命の値段が高いからです。「命を金で買う」というのは正義感・公正感と相容れないかもしれないが、経済学的には問題ありません。

何かにつけて経済学者は、競争によってサービスの質は向上し、価格は低下すると言うのですが、こと医療に関する限り、そうなっていないし、今後そうなると強弁するのもそろそろやめるべきではないか。

命の値段が高いというのは需要側の事情ですが、供給側を見てもコストが下がりにくい事情がある。高度医療のコストが高く、なかなか下がらないのは、結局、それが技術料だからです。そういう高度技術を提供できる医師の供給はそんなに簡単に(低コストでは)増えないからです。

いずれにしても福祉国家というのは、公共財やら「市場の失敗」など、経済学が政府の介入を正当化する道具立てでは正当化できないのです。「生存にかかわる財・サービスは公的に低価格で提供されるべきである」という別の価値基準が必要です。

どういう社会が選択されるべきかは、国民の選択です。「お金がなければ医療が受けられず死ぬのも仕方ない」と割り切れるかどうかの選択です。

日本の場合は、高サービスを低負担で受けることができるような「毛バリ」を垂れる「改革政党」が」人気を博しているのも、もう一つの問題ですが。

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http://d.hatena.ne.jp/dongfang99/20100823

<鈴木氏のような立論に対してよく感じる違和感の一つは、貧困者や身障者への対策の話になると、「それは別の対応をすればいい」「いくらでも保障の方法がある」という言い方になっていることが多いことである。

 これは福祉国家論でいう、政府の社会保障は市場で対応できない部分に限るという、「残余モデル」の考え方である。残余モデルの問題は単に所得再分配が弱いということではなくて、再分配を「本当に困っている人」「本当に働けない人」にのみ限定してしまうことである。そのため、福祉サービスが富裕層・中間層から低所得者への「慈悲」「恩恵」のような性格を強め、サービスを受けている人へのスティグマも強くなりがちである。つまり「生活保護のくせに高級車を乗り回している」的なバッシングである。そこでは、誰が「本当に困っている人」なのかということをめぐって政治的な対立が起きやすい。そして、貧困者や身障者が相対的に政治的なマイノリティである以上、往々にしてその「本当に困っている人」の境界線は下がり続けていく傾向がある。

 逆に「制度モデル」型の福祉国家では、すべての人が潜在的に「弱者」になる可能性があるという前提に立って、「弱者」を生み出さないようなセーフティネットを、所得の多寡にかかわらず全国民にあらかじめ張っておくという戦略をとる。つまり、重度の身障者を抱えている家族を、「かわいそうな家族」の問題にするのではなく、自分の家族も潜在的にそうなるという可能性を踏まえた上で、そのリスクを社会全体で共有するということである。社会保障の専門家の圧倒的多数はこの制度モデルを支持しているが、その理由の大きな部分は、貧困者や身障者を「かわいそうな弱者」のカテゴリーに閉じ込めることなく、社会的な包摂が可能になる点にあると考えられる。>