程度の問題ではない

この人、復活して冴えてます。私も「はやぶさ」にはイラッとします。

確かに、程度ではなく、質の問題かもしれませんね。

マスコミも、この点は一貫していません。例えば「飲酒運転撲滅キャンペーン」で、飲酒して事故を起こした人と、ただ飲酒運転が見つかった人に対し、それぞれどのような(刑事罰ではなく)社会的制裁を加えるかは、まさに程度の問題と思うけれど、マスコミの扱い方はほとんど同じですね。飲酒運転に程度の差はない、という扱いをしている。

南京事件についても、要は、中国は「程度の問題じゃない」と言っているのですよ。これに対し、日本人は「程度の問題」と言いたいので、時々もめる。

逆に「拉致問題」だと、あちらは日本の戦争犯罪と相殺できるような「程度の問題」と考えているのに対し、こちらはそうじゃないと考えるので、なかなか解決しない。

領土問題は、ロシアにとっては「引き分け」がありうる「程度問題」だが、日本にとっては、こちらの当初の主張を認めさせるかどうかだけが重要な「質の問題」なので、これまた難しい。

放射能も「程度の問題」派と「質の問題」派の抗争なのでしょう。

経済学者は、だいたいどんな問題でも「程度の問題」と考えるはずですが、それが家族を新幹線で遠くに逃したりするのは、放射能の「程度」が危険、と思っているということかな。

辛坊の番組で、勝谷が「沖縄で毎年やっている、青森の雪を運んで子供たちを遊ばせるというプロジェクトが、東京から避難してきた親たちの反対で中止になった」と激怒していました。

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http://d.hatena.ne.jp/Dr-Seton/20120320

<ちょっと、歴史修正主義の話と絡めて説明してみましょう(なぜか、はお判りですね)。

南京事件」や「従軍慰安婦」問題に関する文献というのは、必ず日本軍が行ったことの背景や構造について触れられています。というより、そちらが主題なわけですね。蛮行はもちろん問題ですが、それをなし得た理由、それを取り巻く状況などについての理解がより重要である、という視点に立っています。

一方で、歴史修正主義者はいきなり「人数」を問題にしはじめます。「30万人殺されたのが信じられないだけ」とか、「人口20万人の都市で30万人殺されるわけがない」とか。物理的に不可能、というテンプレもあります。そもそもクレームを付けるポイントが“そこ”なわけです。そして、一貫して背景や構造について触れようとしません。せいぜい、「戦争だから人が死ぬのは当然」というレベルで済まそうとする。

つまり、彼らは「南京事件」(等の戦争犯罪)と旧日本軍(ならびに日本国自体)が抱えていた問題や戦争責任問題を切り離そうとする。裏返せば、その両方が密接な関係性を持っている事を無視するために、「人数」や「定義」を問題にしたがるのです。

ですから、文献による事実を示しても意味がない。彼らは何度でも繰り返します。その意図は「疑問に対する回答を知る」事には無いからです。

私は、「正しく怖れよ」の人々も同様だろうと思います。原子力の抱えてきた問題は、そのままアカデミズムの問題と直結します。つまり、アカデミズムの「責任問題」ですね。原子力の抱える問題を指摘するには、自らのポジションも批判の射程に捉えなくてはならない。

それを拒むとすれば?

原子力ムラ批判を一切避けて、「科学的基準」だけを押し通す他無くなるでしょう。そして、その意見を受け入れない人々を愚か者呼ばわりしか出来なくなる。それが問題だ、という事です。

現在、原子力ムラの人々は、問題をコミュニケーションの稚拙さに帰そうと考えているようです(日本原子力学会プログラム参照のこと)。つまり、正しき情報を丁寧に判りやすく「理解」させなかったのが問題だ、という事です。

でも、これは根本から間違っています。彼らが自分たちの問題をテクニカルなレベルでしか捉えないのは、自分たちが係わってきたシステム全体への不信を認めることが出来ないからでしょう。その不信に応えれば、自分たちの存立基盤自体が危うくなる。それを見ない振りをするには、人々の抱える不信感を巧く「理解」していない(させていない)という形に押し込む事になる。>