マリア・テレジア
以前、現在のエリザベス女王の姓は「ウインザー」だが、チャールズ皇太子の姓は「マウントバッテン=ウィンザー」である、という話をしました。
http://blogs.yahoo.co.jp/mazepparrigo/34894709.html
ヨーロッパではこのような複合姓は普通ですが、日本ではなかなか受け入れにくい。まるで「三井住友銀行」みたいな感じで、世俗な感じがして皇室にふさわしくないのみならず、そもそも戸籍法はこういうやり方を認めていない。
ヨーロッパでは、男系が続いている間は、父の姓が継承されるが、いったん女系になると複合姓となるようです。
オーストリアはマリア・テレジアの王子が家督を継承したことによって、日本的に言うと「皇統が断絶」しました。複合姓というのは、その記録みたいなものなんですね。
オーストリアでは王家の家督はオーストリア大公によって継承されるものなんですね。
ドイツ国歌がオーストリア皇帝を讃えたハイドン作曲「皇帝讃歌」であるのはおかしい、という議論がありますが、ここでいう「皇帝」とは選挙で選ばれる神聖ローマ皇帝であって、オーストリアの家督継承者ではないと考えれば、おかしくないんでしょう。
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%86%E3%83%AC%E3%82%B8%E3%82%A2
<マリア・テレジア・フォン・エスターライヒ(Maria Theresia von Österreich, 1717年5月13日 - 1780年11月29日)は、神聖ローマ皇帝フランツ1世シュテファンの皇后にして共同統治者、オーストリア大公(在位:1740年 - 1780年)、ハンガリー女王(在位:同じ)、ベーメン女王(在位:1743年 - 1780年)。オーストリア系ハプスブルク家男系の最後の君主であり、彼女の子供たちの代からは正式には、夫の家名ロートリンゲン(ロレーヌ)との複合姓(二重姓)でハプスブルク=ロートリンゲン家となる。
一般に「女帝」と呼ばれ、実態も女帝そのものであったが、実際には皇帝に即位したことはない。後述するようにハプスブルク家の領国と家督を相続したのはマリア・テレジアであるため、彼女の肖像画には神聖ローマ皇帝の帝冠が添えられている場合が多く、当時も少なくとも領国内では「女帝」視されていた。正式には皇后でしかない彼女がこのように扱われる理由としては、次のような点が考えられる。
夫である皇帝がフランス国境沿い(現フランス領)の小国ロレーヌ公国出身の養子的存在であり、ハプスブルク家領国内において実際の政治的権力をほとんど持たなかったこと。
帝位は夫のものであったが、ハプスブルク家当主が継承してきたオーストリア大公の位には彼女が就いていたこと。つまり、実質的に国家の実態を失っていた神聖ローマ帝国よりも、その盟主的位置にある(法的には国家ではなくハプスブルク家を媒介とする曖昧な存在だが)オーストリアおよびハプスブルク家支配地域のほうが事実上の政体(ハプスブルク君主国)と見なされていた。したがって、兼任しない場合は皇帝位は単なる国家連合議長にすぎず、オーストリア大公位の方が遥かに政治的権限が強かったこと。
このためフランツは夫君、王配としてのイメージで捉えられ、マリア・テレジアの女帝的性格(実際には皇后・女王)が広まったといえる。百科事典などにおいてもマリア・テレジアは伝統的に「女帝(神聖ローマ女帝)」として掲載される場合が非常に多く、日本国外でも同じ傾向にある。
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http://blogs.yahoo.co.jp/mazepparrigo/34894709.html
ヨーロッパではこのような複合姓は普通ですが、日本ではなかなか受け入れにくい。まるで「三井住友銀行」みたいな感じで、世俗な感じがして皇室にふさわしくないのみならず、そもそも戸籍法はこういうやり方を認めていない。
ヨーロッパでは、男系が続いている間は、父の姓が継承されるが、いったん女系になると複合姓となるようです。
オーストリアはマリア・テレジアの王子が家督を継承したことによって、日本的に言うと「皇統が断絶」しました。複合姓というのは、その記録みたいなものなんですね。
オーストリアでは王家の家督はオーストリア大公によって継承されるものなんですね。
ドイツ国歌がオーストリア皇帝を讃えたハイドン作曲「皇帝讃歌」であるのはおかしい、という議論がありますが、ここでいう「皇帝」とは選挙で選ばれる神聖ローマ皇帝であって、オーストリアの家督継承者ではないと考えれば、おかしくないんでしょう。
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%86%E3%83%AC%E3%82%B8%E3%82%A2
<マリア・テレジア・フォン・エスターライヒ(Maria Theresia von Österreich, 1717年5月13日 - 1780年11月29日)は、神聖ローマ皇帝フランツ1世シュテファンの皇后にして共同統治者、オーストリア大公(在位:1740年 - 1780年)、ハンガリー女王(在位:同じ)、ベーメン女王(在位:1743年 - 1780年)。オーストリア系ハプスブルク家男系の最後の君主であり、彼女の子供たちの代からは正式には、夫の家名ロートリンゲン(ロレーヌ)との複合姓(二重姓)でハプスブルク=ロートリンゲン家となる。
一般に「女帝」と呼ばれ、実態も女帝そのものであったが、実際には皇帝に即位したことはない。後述するようにハプスブルク家の領国と家督を相続したのはマリア・テレジアであるため、彼女の肖像画には神聖ローマ皇帝の帝冠が添えられている場合が多く、当時も少なくとも領国内では「女帝」視されていた。正式には皇后でしかない彼女がこのように扱われる理由としては、次のような点が考えられる。
夫である皇帝がフランス国境沿い(現フランス領)の小国ロレーヌ公国出身の養子的存在であり、ハプスブルク家領国内において実際の政治的権力をほとんど持たなかったこと。
帝位は夫のものであったが、ハプスブルク家当主が継承してきたオーストリア大公の位には彼女が就いていたこと。つまり、実質的に国家の実態を失っていた神聖ローマ帝国よりも、その盟主的位置にある(法的には国家ではなくハプスブルク家を媒介とする曖昧な存在だが)オーストリアおよびハプスブルク家支配地域のほうが事実上の政体(ハプスブルク君主国)と見なされていた。したがって、兼任しない場合は皇帝位は単なる国家連合議長にすぎず、オーストリア大公位の方が遥かに政治的権限が強かったこと。
このためフランツは夫君、王配としてのイメージで捉えられ、マリア・テレジアの女帝的性格(実際には皇后・女王)が広まったといえる。百科事典などにおいてもマリア・テレジアは伝統的に「女帝(神聖ローマ女帝)」として掲載される場合が非常に多く、日本国外でも同じ傾向にある。
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