私の履歴書・市川猿翁8~14

 猿之助はお前が継ぐのだ。祖父の二代目猿之助は私が子どものころから、そう言って聞かせていた。御曹司は襲名イコール名題(なだい)(看板に載るような役者)昇進。大学を出た私もそろそろ襲名をと言われ、猿之助をくれるのかと思っていたら、祖父は猿蔵とか猿之丞といった名前しか出さない。惜しくなったのだろう。

祖父(右)の自宅で
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祖父(右)の自宅で
 役者の家に生まれると三度名を変える。初舞台を踏むときの幼名と青年期の名と功成った後の名の大体三つを襲名していく。澤瀉屋(おもだかや)では本来、段四郎の名が一番格が高い。幼名が團子(だんこ)、若いときの名が猿之助なのである。

 この順なら祖父も段四郎になるはずだった。ところが合理主義者の祖父は3回も名を変えるのは大変だから澤瀉屋では2回にしようと決め、息子に段四郎を継がせ、自分は猿之助を名乗り続けた。

 話は明治の終わりごろにさかのぼるが、坪内逍遙(しょうよう)が「桐一葉(きりひとは)」を書いたとき、名優たちが集まった。皆、言葉の意味がよくわからない。その場にいた初代猿之助はこれを恥じ、息子の祖父に近代教育を受けさせた。以来、澤瀉屋には人を感動させる役者の仕事には教養が必要という考え方が受け継がれ、合理的にものごとを考える気風がある。

 数々の業績を残した祖父が名乗り続けた猿之助は結果的に大きな名となったが、父は祖父をしのげない。世間からは段四郎より猿之助の方が大きな名前と映っていた。

 さて、私は祖父に「古めかしい名跡を継ぐくらいなら私に考えさせてください」と申し出た。「そんなら何がいい」と聞かれた。上方和事にあこがれていた私はその祖である坂田藤十郎の名を挙げた。

 しかし、祖父に一喝されて、それなら、いっそ皆の知る小説「雪之丞(ゆきのじょう)変化」の雪之丞がいいと提案した。祖父も仕方なくウンといった。私は初代市川雪之丞になる予定だったのである。

 歌舞伎の世界は伝統の積み重ねによる素晴らしい部分と因習にとらわれた部分とがある。たとえば、先輩をお兄さん、大先輩をおじさんと呼ぶが、私は恥ずかしくて言えなかった。慶応の先生同様、ずっと「さん」で通した。

 襲名では配り物をするのが常だが「はがき1枚ですませたら、どうですか」と言ったら祖父は「お前、そんなもんじゃありません」。

 襲名の配り物は表に奥村土牛画伯の大輪の牡丹(ぼたん)、裏に雪輪の縫いのある袱紗(ふくさ)、それに小絲(こいと)源太郎画伯が描いたパンジーの扇子、紋を入れた手拭(てぬぐい)を準備した。ところが襲名の3カ月前、急に祖父に呼ばれると「猿之助を継いでくれ、頼む」という話になっていた。「金の矢が頭にぐさりとささる夢を見た」。死を予感したというのだ。三代目猿之助への道が開けたが、雪之丞の名も配り物も幻となった。

 祖父は白猿を継ぎたかったが、市川宗家ゆかりの名で許されない。作家の舟橋聖一先生、久保田万太郎先生たちが知恵を出してくださり、猿翁に収まった。万年青年の祖父に翁はジジくさかった。俳句をよくした人らしく「翁の文字まだ身にそはず衣がへ」という自筆の風呂敷を配った。

 ときはくだって2012年、祖父と父の五十回忌追善を機に私は二代目猿翁を継いだ。記者会見で「翁の文字身に添うまでは生き抜かん」と詠んだのは祖父の句を受けたものである。私、猿翁は120歳まで生きたいと思っている。

(歌舞伎俳優)

 猿之助襲名を前に浅草寺でお練りをした1963年4月20日、初代猿翁となる祖父(二代目猿之助)が心臓病で倒れた。「金の矢がささった」という予言は的中する。祖父の休演で演目や配役が変わった。翌月の襲名公演で祖父は舞踊「黒塚」の当たり役の鬼女を披露するはずだった。松竹や親族は大叔父の中車を代役にと考えたらしい。私は聖路加病院へ駆けつけ、入院中の祖父に言った。

 「僕にやらしてください。手順は知っています。今すぐできます。技術はつたなくても精神(こころ)だけは伝えます」

 病床の祖父は私をじっと見すえ「できるか」。「はい」とうなずくと「ヨシ、やってみろ」。祖父の踊りを何でも知る弟子の猿三郎に三日三晩、教わった。「黒塚」は奥州安達原の鬼婆伝説に由来するが、祖父はこれにロシアン・バレエの感覚を取り入れて一大傑作とした。月の踊りなど1メートル四方の動きで随分踊っているように見える。

 この「黒塚」が開幕する時刻になると、祖父は病院のベッドに起き上がって目をつむり、無事勤められるよう手を合わせていた。1時間13分ずっと念じてくれたという。祖父の一念が私を踊らせてくれた気がしてならない。無我夢中の私はウレシカッタ!

 祖父が初めて「黒塚」をやったのは50歳。自分がその歳になるまで祖父は生きてはいまい。見て覚えておこうとかねて努めていた。恥をかいてもやることが使命と感じた。

 千秋楽の数日前、祖父は輿(こし)にかつがれ歌舞伎座に来て、監事室で「黒塚」を見た。あとで病床へ駆けつけると「月の踊りの杖(つえ)の先が描く線をもう少しゆるやかに。ギクッとするところが1カ所ある」と注意は少しだけであった。祖父はなかなか褒めない人だから、ほっとした。

 「お前もどうやら役者になれそうだ」。ぽつんと言った。

 「おれはこの年になって『黒塚』を初めて客席から見たが、もうひとひねり必要だナ。何か足りない。これはお前が見つけてくれ」

 それから、ひと月もたたぬうち、祖父は世を去った。私はこれまで「黒塚」を861回踊ったが、500回に至ったころ、祖父の言った何かとは修行を極め自在の境地にいたった芸の格――世阿弥のいう最高の芸位、闌位(らんい)の精神性かと思った。

 ところが、海外で意外な「何か」を発見した。ニューヨークのメトロポリタンオペラハウスで89年に公演したとき、オーケストラボックスに地方(じかた)が入った。入れ替えの暗転なし、舞台がどんどんつながり、理想の「黒塚」ができた。「何か」とはスピードではないか。祖父に見せたかった。

 さて、私の襲名披露の役は「黒塚」の鬼女に加え、「吉野山」の忠信、「鎌倉三代記」の三浦之助、「河内山」の松江候であった。驚くべきことに最後の3日間、祖父は口上に出た。やはり療養中だった父まで、母や周囲の止める声も聞かず出演する。涙の口上といわれた。

 のどと耳の栓の間にがんができ、祖父より重病だった父も楽屋入りすると元気になった。不思議でならなかったが、今は理解できる。私自身が8年半の闘病生活をへた2012年6月、澤瀉屋(おもだかや)4人同時襲名の舞台に立てたから。無我夢中、タノシカッタ!

 出る前はもうだめだと思いがよぎるが、上がれば無意識に手が動き、体が反応する。祖父も父も同じだったのではないだろうか。

(歌舞伎俳優)

「若旦那(わかだんな)、大旦那(祖父)が亡くなりました」

 襲名披露の翌月、私は歌舞伎座菊池寛作、今日出海演出の「袈裟(けさ)の良人(おっと)」という芝居に出ていて幕があく寸前、舞台に板付きでいるとき、知らせが入った。

 1963年6月12日のことだ。緞帳(どんちょう)が上がって、客席上のライトがパアッとさしてきた。それが朝日に見えた。悲しさを通り越して「いよいよ私の人生が始まるぞ」と勇み立つ心がわきあがってきた。今思い返してもドキドキする。祖父の庇護(ひご)のもとにあった夜が終わり、朝が始まるのだ。

 骨になったらしょうがない。私は葬儀で骨壺(こつつぼ)をガラガラと振ってしまった。抑えきれない、どうしようもない思いがそんな行動を引き起こした。まるで父親の葬儀で抹香を投げつけた織田信長だ。

 半年もたたぬ11月18日、後を追うように父が亡くなった。繊毛肉腫を患っていた父は奇跡的に持ち直し、祖父を見送ってから亡くなった。

 悲しかった。いうまでもないことだ。しかし、悲しみとは別に、祖父と父の死は、私に真の試練を与えてくれたのではないかと奮い立った。私は逆境にくると、勇み立ってしまう得な性分がある。

 後に猿之助歌舞伎と呼ばれる私の演劇活動に、お歴々はいろいろなことを言ったり書いたりなさった。けれども、ちっともこたえなかった。スーパー歌舞伎ヤマトタケル」の作者、梅原猛先生から「君とか僕のような人間をダメにしたいなら、ほめてほめて堕落させることだ。悪口は敵に塩を送るようなものだ」と言われ、大笑いした。

 祖父と父が長く元気でいたなら私の役者修業もいくらか楽だったかもしれない。だが、思い切った創造はできなかった。古い世界で新しいことをやれば風当たりが強いのは昔も今も変わらない。古いことをなぞるのが一番無事で「ことなかれ」というわけだ。宙乗りも危険だと止めただろう。革新的と呼ばれた祖父であっても、孫を守ろうと制約を与えたと思う。

 判官びいきの心情もあって「劇界の孤児」などと言われた私は大いに同情を受けたが、こちらは必死だった。

 祖父の一周忌を迎えるころ、私は「猿翁十種」(当時は「二代目猿之助十種」)を制定した。「悪太郎」「黒塚」「高野物狂」「小鍛冶」「独楽(こま)」「二人三番叟(さんばそう)」「蚤取男(のみとりおとこ)」「花見奴」「酔奴」「吉野山道行」である。本来なら生前に祖父が選ぶものだが、照れ屋で潔癖症だったので、そうしたことに手をつけずに亡くなってしまった。祖父の作った舞踊や新しく演出をつけた演目から私が選んだ。

 役者の名前は、いつか忘れられる。せいぜい80年というところか。舞台を見た人がいなくなれば、どんな名優の記憶もそれで終わり、消えてなくなる。ところが創造者の魂は不滅のはずだ。家の芸とは、そういうものだと言えるのではないか。

 「猿翁十種」は、祖父と父の一周忌にあたる追善公演で披露した。微力だった私がこんなに早く盛大な会を持てたことは我ながら驚くべきことだった。2日間の公演で演じたのがなんと17役。なせばなるとはいうものの、よくやったと我ながらあきれるほどだ。

 振り返ってみれば、この追善公演は自主公演「春秋会」の魁(さきがけ)であった。私の代名詞ともなる後の猿之助奮闘公演の性格さえ帯びていた。

(歌舞伎俳優)

祖父と父が亡くなった後、大幹部の下につけば役ももらえて苦労はなかっただろう。つくものと誰もが思ったようだが、私はそうしなかった。傘下に入ると自由な行動ができないというのが第一の理由だった。誰かについて学び、順々に回ってきた役をやる「寄らば大樹の陰」の生き方は選択肢になかった。

父の遺影を前に母(中)、弟(右)と
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父の遺影を前に母(中)、弟(右)と
 新猿之助が頼るだろうと周囲がみていた大幹部のひとりは六代目歌右衛門丈だった。祖父との共演も多かったし、毎晩のように一ツ木の猿翁邸で麻雀(マージャン)をする間柄だったからだ。私の襲名公演で「吉野山」にも「鎌倉三代記」にも出てくださっていた。

 ちなみに鴈治郎丈、清元の志寿太夫さん、新派の英太郎さんなども麻雀が好きで、声がかかれば私も卓を囲んだ。掘り炬燵(ごたつ)の中で皆さん足が届かず、ブラブラさせていたのはご愛敬だった。

 祖父の遺徳によって誰か大幹部の傘下に入ると周りは思ったらしい。松竹を通して誘いはあったが、直接にはどなたからも声がかからなかったのである。

 ともかく入らなかったため、いろいろな人にニラマレテ思うような役がつかない。

 十一代目団十郎丈との「事件」もあった。1965年8月の新橋演舞場公演に際し、新聞に「うちの祖父の通りに『素襖落(すおうおとし)』をやる」とインタビュー記事が載った。団十郎丈が人を介して「上演を差し止める」と松竹に申し入れてきた。市川宗家の家の芸「新歌舞伎十八番」であるのに、澤瀉屋(おもだかや)の型でやるとは何事だというのである。

 ごたごたを恐れた会社は演目を変えてくれと私にもちかけてきたが、私は「次第をうかがってきます」とずうずうしくも団十郎邸へ直談判にいった。団十郎丈は舞台と違ってアー、ウーと口が重く、あまりしゃべらない。そばでマネジャー氏ばかりがしゃべりまくる。私はこう説明した。

 「祖父の通りという意味は、ユーモラスな持ち味の事を言ったまでです。祖父のやり方は、ト書浄瑠璃が入った市川家の新歌舞伎十八番そのままなのです」

 団十郎丈は子細をそのとき初めて知ったらしい。稽古(けいこ)をみて結論を出すことになり、マネジャーを見せにやりましょうということで話は終わった。形式的な検分があり、よろしいでしょうと返事があった。板ばさみになっていた松竹は胸をなでおろした。

 一般社会の方には珍事と映るかもしれないが、歌舞伎界ではよくある話だった。当事者が話せばなんともない問題であっても、いろいろな人が入ることで、ややこしくなる。十一代目は気性のさっぱりした理のわかる方であった。この大先輩ともっと話ができていれば面白かっただろう。

 私は若いころから歴史に名を留めた名優の生き方を目標にしなければいけないと考えていた。昔から名だたる名優は大体30歳くらいで座頭をはることが多い。若いときから大役を演じ、どんどん修羅場を経験しなければいけない。新しいことへ挑戦しなければいけない。ゆったりと修練してからでは、勢いがそがれてしまう。

 襲名したばかり、弱冠23歳の私の抱いたそうした思いを後押ししていたのは、卒業論文で研究した歌舞伎本来の魅力であり、学生時代の経験――歌舞伎を客観的にとらえること――だった。

(歌舞伎俳優)

 「若鮎(わかあゆ)の大河に生きるも死ぬも身一つ」。確か新聞か雑誌で見た句だが、誰かが私に宛てて書いてくれたのだと思った。肉親の後ろ盾を失っても力ある先輩のもとへ行かなかったため、思うような役はつかない。ならば打って出ようと始めたのが自主公演の「春秋会」である。

浜木綿子さんと
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浜木綿子さんと
 強くあこがれた江戸時代の歌舞伎は座頭役者が演出家であり、脚本家であり、プロデューサーであった。そんなオールマイティーの力を身につけたいと願った私は自ら劇場を借り、脚本も書き、演出もしてやろうと勇み立った。

 幸運にも力になってくださる人たちが現れた。六代目藤間勘十郎師には踊りや振りばかりでなく演出を習い、観世栄夫師に能狂言にかかわるアドバイスを受けた。黒御簾音楽の第一人者だった杵屋栄左衛門師や演出家の戸部銀作先生など大先輩やスタッフが応援してくださった。

 1966年7月、自主公演「春秋会」の第1回を東横ホールで3日間打つ。珍しい「石切勘平」は祖父から聞いていた忠臣蔵の変型版「太平記忠臣講釈」の四段目。この芝居では早野勘平は石屋に身をやつす。口上人形であらすじを解説する工夫をつけた。後の復活狂言でみせた手法はこの折に考案した。文楽の八代目綱大夫師(監修)、十代目弥七師(作曲)の力を借りた154年ぶりの復活上演で私の初めての歌舞伎演出であった。舞踊の「酔奴」と、最もやりたかった新解釈演出の「俊寛」を安藤鶴夫先生の監修で出すこともできた。

 第2回公演は新橋演舞場で、並木五瓶の「金門五三桐(ごさんのきり)」を190年ぶりに復活通し上演したが、3日間の公演で300万円の大赤字だった。

 第3回にして歌舞伎座に進出し、2日間が超満員の大盛況。第4回は演劇評論家武智鉄二先生から教えられ資料を集めていた鶴屋南北の「金幣猿島郡(きんのざいさるしまだいり)」を復活上演した。第5回は「傾城反魂香(けいせいはんごんこう)」の通し上演と新作「博奕(ばくち)十王」。舞踊を初めて創作した。「博奕十王」は先月の浅草歌舞伎で四代目猿之助によって再演され、好評をいただいた。

 私生活でも大波乱が起きていた。65年に女優の浜木綿子さんと結婚。そして3年後に離婚。価値観、目指すもの、すべてにおいて溝が深すぎた。地方公演から帰ったある日、家に入ろうとしても入れなくなっていた。それがひとつの真実だが、息子が生まれていたから、当初マスコミには明かさなかった。

 春秋会の赤字とダブルパンチだった。結局、家庭内戦争には弁護士を立て、離婚が成立した。子供は引き取りたかったがかなわず、ある人の助言で成人式まで養育費を払っていくことになった。生来不器用な私は離婚と引き換えに芝居だけを考え続ける道を得たと言えるかもしれない。

 40数年をへた2012年、息子の九代目中車(香川照之)を介して浜さんと再会することになろうとは夢にも思わなかった。「(息子を)よく育ててくれました。大変だったでしょう、ありがとう」「はい、大変でした」。稽古場で短い言葉を交わした。すべては恩讐のかなただった。

 春秋会は77年まで7度の公演を行った。猿之助歌舞伎といわれるものがあるとすれば、春秋会が源流といえる。演出する力も、考える力も春秋会で養った。私はただ役者でいるよりも、考えることや創(つく)ることが好きだとハッキリわかった。

(歌舞伎俳優)

 宙乗りの演出に出合ったのは、自主公演「春秋会」で古劇復活に燃えていたころだ。「義経千本桜」の川連法眼館の場、通称「四ノ切」の幕切れ。狐忠信(きつねただのぶ)の私は1968年4月、国立劇場で初めて宙乗りの引っ込みをした。

 私にとっては4度目の忠信だったが、2カ月にわたる「義経千本桜」の通し上演で戸部銀作先生は従来と異なる演出でのぞんだ。「幕切れに宙乗りをやらないか」。幕末の四代目小団次本を参考にしようと提案があった。古劇を見たまま書いたその資料に「このところ狐忠信、宙乗りにて見物席へ入る」と記されている。ハテナ、本当にできるのかな。そう思ったものの28歳の私はよし、やってみようという気になった。

 宙乗りは明治の初期までは度々行われたが、その後はケレン蔑視(べっし)の高尚趣味が主流となった。戦後は67年の国立劇場で十七代目勘三郎丈が「骨寄せの岩藤」でフワフワといわれる花の山の宙乗りを見せ、翌年の新歌舞伎座で延若丈が「石川五右衛門」で葛籠(つづら)抜け宙乗りを試みた程度。

 勘三郎丈の宙乗りは舞台上の横断、延若丈のは花道上空に吊(つ)り上がるものの花道揚幕(あげまく)近くに着陸する形であった。

 小団次本のように「宙乗りにて見物席へ入る」にはどうするか? 客席上を斜めに飛ぶ案もあったが、消防法の制約からネットなしで観客の頭上を飛べないとわかり、お流れとなる。花道上空、2階客席上を通り、3階客席に仮設した揚幕(鳥屋)へ消える大掛かりな計画となった。

 花道と平行に天井近くにワイヤを張り、花道のつけ際より吊り上がって、3階後方の仮揚幕へ入る案に落ち着いた。体を吊り上げる胴着(連尺)は自衛隊の落下傘用の胴着を改良し、テストした。

 コロンブスの卵のたとえと同じで、こういうことは一度やってしまえば「なあんだ」となって、後には他劇場にも宙乗り機構は設置されたが、最初に危険を伴うテストを繰り返す劇場側の責任は大変なものだった。国立の劇場、しかも開場間もない意気盛んな時代だからこそ、実現できたと思う。この「四ノ切」はワーッと当たった。観客は理詰めのものに飽きていた。

 宙乗りは歌舞伎界に一石を投じてしまったようだった。「理屈なく涙がこぼれた」「歌舞伎にもこんな面白い演出があったのか」といった賛辞があるかと思えば、本名の喜熨斗(きのし)と木下サーカスをかけて「きのしサーカス」だとか「猿の犬かきを初めて見た」だとか冷やかす先輩俳優もいた。

 宙乗りのワイヤを巻き取る人たちと息を合わせ、空中でポーズをとる工夫を研究したのが懐かしい。狐忠信は動きながら息をつんで言うセリフもあり、心臓がせり出すほど苦しい。しかし回を重ね、年をとるほど楽になった。スポーツと芸の違いだろう。「市川猿之助宙乗り狐六法相勤め申し候」と銘打つ興行は、歌舞伎をみたことがない人まで動員する大当たりとなった。

 私は1123回、狐忠信を演じている。情の表現に重きをおく六代目菊五郎系の音羽屋型と澤瀉屋(おもだかや)に伝わる家の型、それに私自身の工夫を加味し、磨き上げてきた。ケレンの楽しさは理屈を超えて観客を楽しませるもの、心理的なもの、その双方が拮抗するとき、光を放つ。ケレンを10やるとすれば、心理表現は20も30もやらなければいけない。そこが難しいのだ。

(歌舞伎俳優)

さて、ちょっと目先を変え、ここで珍奇なる3幕を。若き日の懐かしい話である。

 第1幕 奇跡の代役。

 1963年11月。映画「残菊物語」が封切られ、主演の岡田茉莉子さんが松竹の演劇部製作室長(のち社長)だった永山武臣さんと旭川で2日間、舞台挨拶(あいさつ)する予定があった。ところが岡田さんは吉田喜重監督との結婚発表で行かれない。永山さんは映画で菊之助を演じた私に代役を命じた。

 可愛想なのは襲名半年の私、猿之助でこの月は昼に終わる「花水橋」の一役だけだから、仕方なく引き受ける。6日、9時起床。10時半歌舞伎座、11時「花水橋」。11時23分、歌舞伎座出発。車に乗り込んで化粧を落とし、羽田空港着。11時53分発の飛行機に間に合わず、次の千歳行きに乗る。千歳から自動車で3時間かかった。

 行き先の劇場で素踊りの「保名」と挨拶が2回。バーで深夜まで時間をつぶし、旭川を夜中の零(れい)時半に出て、千歳に3時着。4時発の飛行機で羽田へ。7日の朝6時、羽田着。7時、赤坂一ツ木の家。仮眠。9時、起床。10時半歌舞伎座、11時18分、車で羽田……。千歳、旭川と同じコースで舞い戻り「保名」と挨拶2回。夜間飛行があった時代なればこそだった。

 第2幕 毛振り63回。

 札幌の冬季五輪の公式芸術行事に代役で参加した72年2月のことだ。本来は十七代目勘三郎丈が「俊寛」と「連獅子」をなさる予定だったが、体調不良となった。この月たまたま空いていた私に、白羽の矢が立った。

 「連獅子」の親獅子は初役だった。子獅子は勘三郎丈の長男、当時の勘九郎君(十八代目勘三郎丈)。札幌に落成したばかりの厚生年金ホールは満員御礼。親子の獅子が毛を振り回すのが「連獅子」の見どころとなる。千秋楽、勘九郎君が言った。「パパはすぐばてるけど、お兄ちゃん(私)なら大丈夫、思い切り振りたい」

 ふつうは親獅子の振りに子が合わせるが、子に好きなように振らせ、親の私が合わせてみる。ともに血気盛ん、どちらかがバテルまでやろうと振り出した。が、お囃子(はやし)の方々に予告なしで始めたので、先に笛がバテテしまった。客席で数えていた人によると40数回振ったらしい。

 次いで旭川の劇場でも公演したが、その千秋楽では63回振った。奇特なファンが客席でカウントしてくれた。

 あの懐かしい子獅子クンが2年前、亡くなってしまった。言いようもなくさびしい。

 第3幕 踊って12時間。

 「澤瀉(おもだか)十種」を制定し、1日だけのお披露目となった75年11月26日、運悪くストライキにあたった。ガラガラを覚悟していたら、あにはからんや歌舞伎座は3階席まで満員。交通機関は大混乱していたが、前日から上京された方、飛行機の切符を手に入れた方、関西から大枚はたいてタクシーで駆けつけてくださった方もいて、ストにも負けず金にも負けずのお客様に大感激した。たとえ命を捨つるとも、熱意にこたえでおこうか!

 決意も新たに「連獅子」を踊る。「檜垣(ひがき)」「猪八戒(ちょはっかい)」「浮世風呂」「隅田川」「武悪」「二人知盛」「夕顔棚」と昼夜合わせ8曲を出ずっぱりで勤めた。都合12時間の大仕事となった。ちなみにこの日明け方、おいの現猿之助が誕生している。

(歌舞伎俳優)