私の履歴書・市川猿翁1~7

 この10年、脳梗塞(のうこうそく)になってから体調が完全でない。舞台を休演することがあるが、心はいつも舞台の上にある。あれこれ紙に走り書きしたものをまとめれば、ある歌舞伎役者の生き方を示せるのではないか。思い立って、この履歴書に挑むことにした。

最近の筆者
最近の筆者
 一昨年夏から始まった澤瀉屋(おもだかや)の襲名公演を去年12月の京都南座まで無事終えた。おいの亀治郎が四代目猿之助に、息子の香川照之が九代目中車に、その長男で孫の政明が五代目團子(だんこ)になった。三代目猿之助だった私は二代目猿翁となった。口上では、あふれるばかりの感謝を心中で叫んでいた。

 「私は幼いころから普通(つね)の人々が追わぬものを、必死に追いかけたような気がする。それは何か……よくわからぬ……何か途方もない、大きなものを追い求めて、私の心は絶えず天高く天翔(あまがけ)ていた。その天翔る心から私は多くの事をした。天翔る心 それがこの私だ」。私が演出したスーパー歌舞伎ヤマトタケル」の最後のセリフだ。

 1986年の初演時にはタケルの死ぬ場面のセリフであった。私の生涯を総括するような最も好きなセリフなので95年の上演から最後のしめくくりにした。作者の梅原猛先生に「私を書いてくださったんですね」と感謝した。

 このセリフのあと、ヤマトタケルは白鳥になって大空へと飛翔(ひしょう)する。その宙乗りの演出は江戸時代にもともとあったものだ。68年に国立劇場公演「義経千本桜」の「四の切」で狐(きつね)忠信の私は宙乗りで引っ込んだ。観客は驚き、興行は大当たり。が、30歳にもならない若造に先輩たちは容赦ない言葉を浴びせた。「サーカスみたい」だとか「猿の犬かき」だとか。

 逆境になればなるほど燃えるのが私の性分だった。23歳で猿之助を襲名した直後、祖父の初代猿翁、父の三代目段四郎が続けて亡くなった。肉親の後ろ盾を失うと、この世界では役がつかなくなり、芸を教わることもままならない。これからというときに劇界の孤児になってしまった。屈してなるものか。闘いは生き方そのものとなった。思えば、祖父も父も命を削って試練を与えてくれたのだろう。

 宙乗りや早替わりで観客をあっといわせる私の歌舞伎はケレン、邪道とみなされたが、歌舞伎は本来そういうものだったのだ。戦国の世が終わり、生命のエネルギーを燃えあがらせたのが歌舞伎。きらきらと時代の先端を走ったのが、かぶき者。かぶくは傾く、からきている。

 天を飛び、地に潜り、生きかわり死にかわるケレンの輝きを取り戻したい。新・新歌舞伎を創始しようと私は江戸の精神(こころ)を追い求めた。異端児と評された私は、正統のかぶき者だと思っている。

 こんなふうに歌舞伎を客観的にみられるのは、代々の考えで普通の人と同じように学校へ行ったからだろう。歌舞伎役者で大学に進んだのは私が初めてだった。

 歌舞伎であって歌舞伎を超えるもの。スピード、スペクタクル、ストーリーの3Sを備えたスーパー歌舞伎はそのたまものだ。古典の新演出と復活に加え、スーパー歌舞伎が私の歌舞伎の柱となった。

 宙乗りは5千7百回を超えた。なぜ飛ぶのか、とよく聞かれた。天翔るそのとき、消えてなくなる今が永遠の時間となる。いつまでも残る夢がそこにあった。

(歌舞伎俳優)

 それは夢の世界だった。湘南の茅ヶ崎にあった一軒家に始まる私の記憶は「兎(うさぎ)追いしかの山……」の歌通り。豊かな自然がのちの私の核をつくった。

茅ヶ崎の海岸で
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茅ヶ崎の海岸で
 東海岸の畑の中にその家はポツンと建っていた。8畳くらいの部屋と3畳ほどの次の間、台所、便所、それに舞踊「夕顔棚」を思わせる半屋外の風呂があるだけ。戦争中の疎開茅ヶ崎へ来たのは1943年、私が4歳のころだ。

 目に焼きついているのは蚊帳をつる懐かしい風景だ。9月の二百十日ごろ台風一過で畑の溝が小川となり、そこで妹の靖子とザリガニをとった。飛行機の音がしてサイレンが鳴り、庭から家へ駆け上がろうと踏み石に足をかけようとした途端、踏みはずして右瞼(まぶた)の横を切ってしまった。この傷は今も残っている。

 東京で生まれたとき取り上げてくれた乳母兼看護師の小田ちゃんと妹との暮らし。父の三代目段四郎、母の高杉早苗(女優)が居た覚えはない。築地の明石町にあった本宅を守っていたのだろう。この一軒家は、やはり茅ヶ崎に住んでいた俳優、上原謙さんの紹介で母が見つけたものと聞いている。

 祖父の二代目猿之助(初代猿翁)と後妻の巾子(きんこ)夫人は佐賀県の武雄に避難していた。お巾さんはもと柳橋の芸者で、名夫人だった春子夫人が亡くなったのち籍に入った。春子夫人の子だった父とは折り合いが悪く、何かというと「チョット」と人を呼ぶので「チョットのお巾」と陰口をたたかれていた。どこかとぼけた愛敬のある人だった。

 次の年、同じ茅ヶ崎の中海岸にあった大きな家へ越した。作曲家の山田耕筰が建てたという別荘だった。安く買ったらしいが、後で見ると爆撃で屋根の一部に穴があいていたそうだ。お金を出したのは祖父だった。

 山田耕筰ゆかりの家は一軒家よりずっと広く、草木の花が次々と開くのがそれは見事だった。白梅、桜、木蓮(もくれん)、桃、花水木、藤、桐(きり)、躑躅(つつじ)、牡丹(ぼたん)、紫丁香花(むらさきはしどい)(ライラック)、薔薇(ばら)、紫陽花(あじさい)、柘榴(ざくろ)、百日紅さるすべり)、芙蓉(ふよう)、金木犀(きんもくせい)、山茶花(さざんか)、椿(つばき)と一年中何かが咲いていた。秋は紅葉が美しく、自然と親しむ楽しさを味わった。

 私の本名は喜熨斗(きのし)政彦といい、39年12月9日に生まれた。3人兄弟の長男。ちなみに戦後すぐに生まれた7歳下の弟(四代目段四郎)にできた長男が現在の猿之助である。

 終戦の日の正午、家にあったレコードのかかる大きなラジオで玉音放送を聴きながら、小田ちゃんが泣いていた。東京は大空襲で焼け野原となり、歌舞伎座も焼け落ちてしまっていた。戦争が終わっても、しばらく茅ヶ崎暮らしが続いた。

 小学校は茅ヶ崎で入学した。慣れるまで母に送られて通ったが、内気な子供で帰る母の後をしきりに追ったようである。東京から来た梨園(りえん)の子は友達もできず、学級では「お坊ちゃま」と冷やかしをこめて呼ばれていた。まばゆい世界に目を開かせてくれたのは戦後の映画だった。電車で平塚に行って、フランス映画の「美女と野獣」などに熱をあげ、映画監督になりたいと口にしていた。

 初舞台は当時としては遅い7歳。「寿式三番叟(さんばそう)」の附千歳(つけせんざい)だった。歌舞伎座はまだ復興されていない。東銀座にある今の東劇の場所にあった東京劇場が、三代目團子(だんこ)襲名披露の花の舞台となった。

(歌舞伎俳優)

 團子(だんこ)を襲名する初舞台「寿式三番叟(さんばそう)」のために踊りの稽古をした覚えはない。二代目猿之助(初代猿翁)だった祖父の弟子、猿三郎にいきなり手順を教えられた。

 「色の黒い尉殿(じょうどの)と」。右手に持った中啓(ちゅうけい)(扇の一種)で面をつけた祖父の三番叟を指す。「御舞い候ぇ」。左手がフラリ、隙(すき)があったのだろう。「この手は何だ!」とピシャリと祖父にたたかれた。

 当時は初日そのままに通して稽古することはない。ところどころ稽古しておく。初日、落ち着いて舞台中央に座ったさまを役者が出るところ、お幕の中から見た祖父は「ああ、この子は役者になる」と思ったそうだ。

 1947年1月のこの初舞台は、祖父と父(三代目段四郎)の三番叟に七代目幸四郎の翁、十四代守田勘弥の千歳(せんざい)という大配役。附千歳(つけせんざい)の私が持って出る面箱には面が入っているので、子供には重い。控えている間ずっと持つには重すぎ、後見が面箱を支える台を置いた覚えがある。お幕から見ていた父も、胸をなでおろしたという。

 7歳の私は養育係の小田ちゃんに連れられ、茅ヶ崎から毎日1時間余り汽車に揺られて東京に通っていた。車内の混雑は並大抵でなく、デッキで立ちづめの日も珍しくない。新橋で電車を降り、東銀座の東京劇場までは歩いた。進駐軍目当てだろうか、テントのような売店がびっしり並んでいた。闇市の雑踏に子供心にもわくわくした。

 千秋楽のころのある日、いつものように幕が開いて私が舞台で控えていると、祖父と父の口論がお幕の方から聞こえてきた。後で聞いた話では「翌月も團子を出せ」という祖父と「学校は休ませません」という父の口論だった。

 「それではお父さん、役者に学問はいらないのですか」

 詰め寄る父に祖父は一本取られ、チョンとなった。役者の子は舞台に出ていればよいというのが常識だった時代に、祖父自身が近代教育を受けた人だったのだから。

 私はおとなしそうにみえて意思が固かった。「僕、トトサマいのぅは絶対イヤ」。高い声をはりあげ「トトサマいのぅ、カカサマいのぅ」なんて言うのはダイキライ。定番の子役をやらなかった。

 とはいえ同じ年ごろの子が少ないので出演を頼まれる。三代目時蔵丈が「先代萩(せんだいはぎ)」の政岡をなさるとき、息子の中村嘉葎雄(賀津雄)さんが子役で出ることになった。「賀津雄ちゃんの千松に鶴千代をやってよ。好きなもの買ってあげる」と誘われても絶対首を縦にフラナカッタ!

 51年正月に新しい歌舞伎座が再開場し、3月には十一代目団十郎丈(当時海老蔵)の「源氏物語」が初演された。私は空蝉(うつせみ)と源氏の仲をとりもつ小君という良い役をもらい、ご機嫌だった。ところが、芝居が長いので空蝉の巻自体が初日からカットされてしまった。もちろん小君の役もなくなった。私は歌舞伎座ロビーの赤い柱に抱きつき、ダダをこねた。松竹の大谷竹次郎社長が「明日は出るよ」となだめたが「きっと出ない」と言った。團子の言うとおりになると「役者を辞める」と大変怒った。

 結局そのままその月は終わった。この一件で私の子役時代は終わる。この年からまる3年、私は舞台から遠のいた。子役時代は新作ものと舞踊がほとんどで、13役しか勤めていない。

(歌舞伎俳優)

 去年のことになるが、6月11日は劇作家、長谷川伸先生の没後50年の命日だった。新聞で知り、仏壇に手を合わせた。先生は父の三代目段四郎、母の高杉早苗の仲人で私の名付け親だった。

長谷川伸先生の名付けの資料と祖父の命名の書(左上)
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長谷川伸先生の名付けの資料と祖父の命名の書(左上)
 名付けの「三考資料」として政典、政彦、政之と書いてくださった三つ折りの上質な和紙がある。その中に「政ハ人ヲ鞭撻(べんたつ)シテ正道ニ導ク 彦(ひこ)ハ男子ノ美称、大丈夫」とあり、祖父の二代目猿之助お七夜に当たる1939年12月15日に政彦を選んだそうだ。かくして私は喜熨斗(きのし)政彦と命名された。「三考」とは参考をもじって、しゃれたものだと聞いた。

 私の手元に古びた額があって、祖父の言葉が書き込まれている。

 「初めて孫と云(い)ふものの顔を見た。妙なうれしさだ。自己の感じでは子か孫か区別がハッキリしない。フト横からのぞいてゐる政則(父)を見た時『アゝそうだ』と思ふ妙な気持ちだ。政則の産(うま)れた時の自分の気持ちを今政則が感じてゐるのだらう。妙に可愛(かわ)い、そしてお祖父(じい)さんと呼ばれる事も一寸妙に淋(さび)しい」

 初孫誕生の喜びと戸惑い。一見矛盾した気持ちが数行の文字に語り尽され、額を見るたびに私は不思議な懐かしさを覚える。

 さて大きな期待を背負った政彦クンだったが、病弱なのに人を驚かすのが当時から大好きだったようだ。

 48年1月、東京劇場で六代目菊五郎丈の「京鹿子娘道成寺」の所化(しょけ)と「め組の喧嘩(けんか)」の鳶(とび)の者に出たことがある。「め組」で「これでおいらの肝がすわった」というところを「肝がツブレタ」と稽古で言ってしまい、一同を大笑いさせた。肝心の舞台はまるで覚えていない。皆が仰ぎみる六代目は人の良いおじさんだった記憶がある。

 疎開先の茅ヶ崎から一時、東京の本宅へ戻り、築地の明石小学校にも通ったが、4年生のとき体を壊し、すぐ茅ヶ崎へ戻された。東京もだいぶ復興した52年に赤坂一ツ木に猿翁邸ができ、三代目段四郎一家(両親と妹、弟の現段四郎、お手伝いさん)も麹町六番町へ引っ越した。私も6年生の3学期から麹町の番町小学校へ転校した。小学校はわが家の目の前といってもいいほど近かった。

 3学期といえば、わずかに1月から3月まで。なのに学芸会と卒業式の謝恩会で演出し、主演までこなしたものだから、生徒や先生、PTAの驚くまいことか。

 謝恩会の「アリババと四十人の盗賊」では、台本、演出、主演(盗賊のカマーキン)をひとりでやった。その少し前、祖父の「敵討天下茶屋聚(かたきうちてんがちゃやむら)」が歌舞伎座に出ていた。客席に逃げて客に化けるおかしさを早速演出にとり入れたところ大受けであった。

 そのとき、いただいた担任の小尾先生の言葉を今もはっきり覚えている。「ひょっこり入ってきてひょっこり出てった君だが、君の残した印象は大きい」。先生方の言葉集のノートは今も大切にしている。

 6年生の秋、偶然父母が国文学者の池田弥三郎先生(慶応大文学部教授)と話していたとき「ある程度成績が良ければ慶応はとりますよ」と言われた。父母は受験させる気になり、急に家庭教師をつけた。泥縄式に勉強。当時、中等部の入学試験では面接を大事にするという慣習があり、それを職業柄楽にこなし、点を稼いだらしい。無事入学できた。

(歌舞伎俳優)

 三田の中等部時代は山岳部や演劇部に籍をおき、慶応の10年で一番楽しかった。1年の担任はワンマンの加藤さん。この学校は先生と呼ばず、さんで呼ぶ慣例があった。加藤さんが部長だった山岳部に入り、北アルプス立山以外はほとんど登った。

中学時代、谷川岳
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中学時代、谷川岳
 2年3年の担任は西村さん。私が長兵衛とあだ名をつけたことから、長をとったナガーイ会という名のクラス会が今も続いている。私は中等部では成績がよく、クラスでいつも1位か2位。ガリ勉は嫌いだった。3年生のとき、演劇部をみていた西村さんが盲腸で入院されたので代わりに「エミールと探偵たち」を演出している。

 中等部2年で初恋をし、1級下のSさんに手紙を出したものの、Sさんの親から「まだ早い」と怒られてしまった。

 月に30本は映画を見た。日曜に5本、試験のときもフランス映画やアメリカ映画を見歩いた。なにしろ小学校2年生のとき「美女と野獣」に5回も通った映画狂だ。

 贔屓(ひいき)は「女だけの都」のルイ・ジューヴェ。挙げればきりがない。ヘップバーンの「ローマの休日」、ジャン・ギャバンの「望郷」、イヴ・モンタンの「恐怖の報酬」……。当時、多くの映画はリバイバルで見た。

 芝居はこの間、夏休みに九州巡業で千歳、二代目段四郎三十三回忌追善で「釣女」の上臈(じょうろう)を演じたのみだが、歌舞伎を見ることは欠かさず、お稽古ごとにも通った。

 山王下の鶴澤清六師に義太夫の稽古をつけてもらうと、名人の三味線にのって語るのが気持ちよかった。澤瀉屋(おもだかや)の舞踊は花柳流だが「鏡獅子」の踊れる役者に、と祖父の二代目猿之助(初代猿翁)が藤間流の六代目藤間勘十郎師に入門させた。のちに藤間勘猿の名をいただいている。

 箏(そう)、三味線、胡弓(こきゅう)の三絃(さんげん)は青木嘉女野師に習い、箏が一番良かったらしい。富崎冨美代師に三味線と箏を習った。

 高校に上がると日吉へ通う。男ばかり、通学電車は人だかり。渋谷から東横線に乗るのだが、一番後ろに控え、前の人がオシクラマンジュウしている間に突入する。案外、席がとれた。

 高校2年ともなれば遊びの皮切り。はやりものの白いレインコートに身を包み、大きな声では言えない遊びも集団でやっていた。学校ではイタズラ模範生だった。

 3年生になっても私はガリ勉嫌いの2番で、クラス委員。ダブリ(落第)のこわい学生が大勢いたが、私はなぜか授業中止の交渉役として一目置かれていた。気の弱いフランス語教師を電話で呼び出すと、悪友連中は周りで脅し声を出す。先生はこう言うのが常だった。

 「アッ喜熨斗(きのし)君ですか、それではつぶしましょう」

 授業がなくなれば校外に繰り出し、雀荘(じゃんそう)で時間をつぶした(規則違反だから見習わないでください)。

 演劇部では熱心に取り組んだ。1年生の夏休みに日本橋にあった白木劇場を借りて「宝島」3幕9場を上演し、フリント船長の霊を演じた。化け物の幽霊の役で、脚色・台本も私だった。

 見に来た祖父が「お前、舟橋よりうめえや」とほめてくれた。舟橋とは、祖父の親しい小説家で、文士劇の常連だった舟橋聖一先生のこと。コレデモカと趣向を盛り込む私の脚本が祖父には面白かったのだろう。

(歌舞伎俳優)

 慶応高校に通ううち麹町の家を離れ、赤坂一ツ木に住む祖父のもとへ移った。ていのいい家出である。そのころ世の中で一番キライな人は父と母だと思っていた。

 反抗期ともちょっと違う。父の三代目段四郎は言ってみればサラリーマンタイプ、ゴルフも野球も好きで、家で芝居の話をすると怒る。対して祖父の二代目猿之助(初代猿翁)は寝ても覚めても芝居の話ばかり。芸術家肌の祖父の方が私には面白かった。

 父は祖父が二十歳のときできた子だ。若くして父親になった恥ずかしさもあったようだ。「團子(だんこ)(私)は孫というより子という気がしてならないんだよ」と言っていた。

 それから7年間、祖父と起居を共にした。私のために母屋続きに部屋を作ってくれた。炬燵(こたつ)式の和室と洋室コーナーがあり、本棚もあった。

 折に触れて祖父は思い出話やら芝居への意見やらを話した。気が若い祖父は孫にも本気になって怒り、議論をふっかける。祖父の考え方や芸に対する態度が自然と私のものになったようである。

 とはいえ実際に祖父直伝で教わることができたのは「連獅子」の子獅子、「二人三番叟(さんばそう)」「操三番叟」「奴道成寺」と「吉野山」「高野物狂」「橋弁慶」などだけである。

 「操三番叟」で三番叟を踊ったとき「人形振りはおなかがないからフワフワ踊るものだ」と言われたことが頭に残っている。「吉野山」では振りの意味と、踊りの区分けを教わった。

 祖父の教え方は独特だった。普通は教える人の後ろについて振りを習うが、祖父は自分の正面に向かい合うように私を座らせ、自ら本イキで踊って「感じを盗れ」というのだ。手順や技術よりイキや表現を自分でつかめというのだった。

 私は高校生になったのを機に再び舞台へ戻っていたが、やはり学業第一という家の方針から楽屋入りは授業の後、夜の部専門だった。

 1955年は9月に渋谷の東横ホールで、父と初めて「連獅子」をやっている。11月は染五郎君(幸四郎丈)とやった歌舞伎座幕開き前の「子供歌舞伎教室」で「楼門五三桐(さんもんごさんのきり)」の久吉を勤めた。機会があれば、半世紀ぶりにふたりでやってみたい。

 翌年は初めて暮れの京都顔見世に出て「弁慶上使」の腰元しのぶと卿(きょう)の君の2役を勤めたのが忘れられない。十三代目仁左衛門丈の工藤による「対面」で化粧坂少将を勤めた。高校3年間を通じて舞台のために1カ月休校したのはこのときだけである。

 歌舞伎界では、新作がさかんに上演されていた。なかでも57年11月、歌舞伎座で上演した志賀直哉の「荒絹」で勤めた阿陀仁が印象深い。

 機織りの名人、荒絹は牧童の阿陀仁を恋するが、女神の妨害で悲劇的結末を迎える。六代目歌右衛門丈が荒絹と女神、私が阿陀仁で、ただただ一生懸命だった。うれしいことに團子の名を覚えてくださった方が大勢いた。

 「荒絹」をやった11月には「黒塚」にも初めて出て、ワキ僧を勤めた。祖父の鬼女、三代目時蔵丈の阿闍梨あじゃり)祐慶、父段四郎の強力、八代目中車のおじのワキ僧に囲まれた。

 後に私が家の芸に制定する「黒塚」の手順をこのときから覚える。覚えろ、と言われたわけではない。自ら見て覚えておかなければと考えたのだった。

(歌舞伎俳優)

高校卒業を前に「くるま座」という劇団を仲間と結成し、旗揚げ公演で「行く先は何処だ」という空想スペクタクル物の台本を書いた。共演した一人が江頭優美子さん。後に小和田さんとなられた雅子妃のお母様は若き日、演劇部員のあこがれだった。

慶応義塾大学の卒業論文
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慶応義塾大学の卒業論文
 1958年に慶応大学国文学科に入ると、キャンパスライフを満喫した。深夜までほっつき歩く。日記を見ると1日24時間フル活用している。勉強大好き(?)の喜熨斗(きのし)政彦クンは3年で単位をあらかたとり、最後の年はたまに講義に出る。

 大学生最初の舞台は新宿松竹座で父の三代目段四郎と初めてやった「二人三番叟(さんばそう)」と「連獅子」。「三番叟」初日の幕がしまった直後、私は貧血で倒れた。その後の「連獅子」のこしらえの最中に目がかすんできた。父に怒られ、目を覚ます。これぞ獅子の子落し楽屋なり、かくなる荒行で鍛えられたのである。

 この新宿松竹座では十代トリオと呼ばれた染五郎君(幸四郎丈)と萬之助君(吉右衛門丈)と私で「車引」をやって評判になった。歌舞伎役者で六・三・三制教育を受けた第1世代だ。

 大学3年の年はテレビの連続ドラマ「鞍馬天狗」で主演。学校へ行き、テレビを収録し、舞台に出て、映画を朝に撮るような4本立ての生活だった。映画では「楢山節考」で田中絹代さん、「朝焼け雲の決闘」で高田浩吉さん、「大坂城物語」で三船敏郎さんと共演している。

 映画監督にあこがれていた私は映像の仕事も経験してみて、歌舞伎以外に時間を使うのはもったいないと思うようになる。60年6月、新宿松竹座改め新宿第一劇場で「河庄」の治兵衛を勤められたのは、祖父に懇願したためだ。

 二代目中村鴈治郎丈の高弟で、その舞台を何でも知る松若丈に泊まり込みで教えてもらう。團子(だんこ)の心意気やよしと劇評でほめられ、意中の役を演じられてタノシカッタ!

 なぜ「河庄」が念願だったのか。それは上方和事の魅力に心奪われていたから。遊女小春を思う治兵衛は別れる決意をしてもあきらめきれず、心中へいたる。どうにもならない泣き笑いのペーソスに観客は「かわいそうやなぁ」と言いながら手をたたいて喜ぶ。理屈を超えた非合理が歌舞伎のそもそもの魅力だと思い、心ひかれたのである。高校大学時代、私は上方の名優、鴈治郎丈の追っかけだった。

 上方和事といえばすぐ思い浮かぶのが近松門左衛門だが、芝居としては書き替え物のほうが面白い。なぜか? その疑問が大学の卒業論文「演劇史における近松の位置とその世話物作品の変遷」のテーマとなる。

 この卒論は池田弥三郎先生に大変ほめていただき、長い間大学に保管された。結びにこう記している。

 「良い新作とは(1)近松の今日性や、作品の今日性で述べた、人間性(不変なるもの)の描写の的確。(2)その作者の生きた時代の、人間がおりなす社会の、つまり人間をとりまく時代的環境の描写の的確。(3)そしてこの両者の葛藤の描写の的確、であると思う。これはやがて時が過つと立派な古典になる。(中略)守ることのみが伝統ではないのである。守ると共に常に新しいものを生み出さなければならないと思う(後略)」

 古典の新演出やスーパー歌舞伎につながる私の歌舞伎観が芽生えていた。

(歌舞伎俳優)